途中、霊廟のダル・ド・ヴェールや、石楠花のパネルなど、短納期の仕事を挟みつつ、「アテナとニケ」の制作も続いています。
カットが9割がた終わり、アテナとニケのボディーに陰影の絵付けを始めました。あまりごてごてと描き込む気は無いのですが、少しは立体感を出さないと、作品に凄みが生まれません。ライトボックスの上で、グリザイユを塗っては剥がし、塗っては剥がしし、納得のいく陰影が出るまで、根気よく作用を続けます。巧く塗れたら、電機窯で焼き付けます。
さて、この作品にこめたストリーを紹介させていただきます。
副題は「ニケを送り出すアテナ」です。
アテナは、ゼウスの最愛の子供にして、最も強く、最も人気のある女神です。その守護地アテネはギリシア共和国の首都です。アテネのアクロポリスにそびえ彼女を祀るパルテノン神殿は、ドリア式建築の最高傑作といわれています。
女神アテナは文武両道。戦場では槍を手に駆け巡り、館にあっては乙女らしい慎ましさで機を織ります。
彼女の役目の一つは英雄たちの守護神となってかれらを助けてやることです。
一方、ニケは勝利の女神です。ルーヴルの至宝「サモトラケのニケ」が有名で、スポーツブランド「NIKE」の名の由来にもなっています。オリンピックのメダルのデザインなどにも描かれています。
知と戦の女神であるアテナと親しく結びつき、この偉大な処女神の随神と見なされるようにもなりました。特にアテネの人々は彼らの守護女神とともにニケを熱心に崇め、アクロポリスに優美な小神殿を建てて崇拝しました。そんなニケのトレードマークは、翼と月桂冠です。
この作品では、まさにアテナの指示で、勝者となるべき英雄の元に降り立ち、勝利を授けようとする瞬間を描いています。ただ、神と人間の混血である英雄の目には、これら女神の姿は見えないのです。
月別アーカイブ: 2007年4月
お寺の霊廟ステンド:取り付け
前日深夜、フランスから帰国し、今日お仕事再開です。
今日は、常総市のお寺にステンドを設置します。
石の霊廟はすでに8割方完成しており、あとは前面のステンドと仏像のレリーフ、中の棚を着けるだけだそうです。石屋さんに手伝ってもらって(というよりほとんどお任せで)、ステンドを開口部にエポキシ接着剤で着けていきます。
接着剤の硬化時間は24時間なので、それまで動かないように三枚のステンドをガムテープで止めておきます。
このステンド、当然のことながら内部から見たとき一番きれいです。普段これを見られるのは、安置される御霊だけです。
後日電気工事屋さんが、内部照明を付けてくれます。そうすれば、夜間は灯篭のように赤い光が放たれるでしょう。残念ながら今日は見ることが出来ません。
ヨーロッパ・ステンド紀行 6 (4月15~17日)
朝、たまには贅沢な朝食でも...という雰囲気になり、ケルン大聖堂のまん前にあるホテルのカフェテラスで、バイキングの朝食を取りました。
ドイツの様々なパンとソーセージ、ジャムやフルーツを、バイキング負けしないように、必死に食べました。料金は一人13ユーロ弱ですから、2000円程度。とてもゆったりした気分になりました。
このような贅沢は、この旅中で初めて
さて、ドイツ入りの最大の目的地、ケルン大聖堂Domですが、塔の高さ157m、奥行き144m、幅86mは巨大と言うしかありません。このゴシックの傑作は、1248年着工で、完成はなんと1880年だそうです。起工時の目的意識と設計が良かったのでしょう。約600年間、恐らく10世代以上の職人達が先代の意思を受け継ぎつつ、自分が見ることの無い完成した聖堂を夢見て制作に打ち込んだのでしょう。
Domの全容を写真に収めるのは無理です
今まで多くの「大聖堂」を見て来ましたが、ケルンは一級です。内部も巨大ホールのようです。ちょうど日曜日で、繰り返しミサをやっていましたが、その奥のほうの様子が、もやが掛かって見えるのです。
ミサの時演奏されていたパイプオルガンが迫力満点だったので、是非<動画像>付きでお聞き下さい。
ステンドも大判の傑作が多数あり、一種の感動麻痺状態になります。絵画性の高い美しい作品を写真に収めてきました。
声が出なくなるようなすばらしい巨大ステンド
今日の訪問地はここだけと決めていたので、大聖堂の塔の頂上まで昇ってみることにしました。2ユーロ払って、永遠続く狭い螺旋階段を上り、心像が苦しくなりかけた頃ようやく陽の射す展望室のようなところに出ました。そこから眺めるケルンは、ライン川に抱かれた豊かな街に見えました。こんな素晴らしいところで、かつて大戦が行われたなんて、信じられません。
さて、この大聖堂の構造を、塔の頂上で間近で見ることが出来ます。当然のことながら現在のようなモルタルや接着技術の無い当時の、石組みだけで150m以上の堅牢な構造物を構築する卓越した技術を垣間見ました。それは、破風や先端の意匠、ところどころに施された石の文様にも見ることが出来ます。
ライン川が美しいケルンの街
毎度のことながら、気忙しい僕達は、一路パリへ。フランソワとカリーヌは明日(月曜日)からお仕事です。高速を飛ばして5時間ほどで、カリーヌ宅へ着きました。当初パリ郊外のフランソワ宅にお邪魔する予定でしたが、パリ市内の方が便利だろうと言う計らいで、カリーヌ宅に転がり込みました。
カリーヌは、フランス領マルチニークの産。そこの郷土料理、茹でたバナナと蜂蜜を入れたラム酒を頂きました。あまり甘くない料理用のバナナには、日本の塩鱈に似た魚のオイル漬けをまぶして食べます。これが、日本人になじみそうなイイ味なんです。バナナは茹栗のような味でした。
彼女は、PCのSkypeで、遠く離れたご両親と無料のテレビ電話を楽しんでいました。南洋の人は、両親との絆が深いですね。
翌16日と、17日は、このカリーヌ宅を基点に、パリ観光や、ベルサイユに行ってきました。ベルサイユは、月曜の休刊日なのに電車との周遊入場券を買って行ってしまい、現地でドジを踏んだことに気が付きました。が、なんと後で駅員に泣きついたら、全額返してくれました。本当親切です。
最終日の夜は、私たちがB級日本料理の代表格、カツ丼を作ってご馳走しました。近くの小さなマーケットでも醤油は手に入り、そこそこ美味しく出来ました。
さて、毎回フランスに行くたびお世話になるフランソワは、私と同じ技術系の学部卒です。ですが、私と同じように脱サラし、今は自ら考案した子供向け算数ゲームを、小学校に売り込んで廻っています。そのうち大ヒットして日本にも上陸するでしょう。私も、それまでに新たなステンドを開拓して、共に成功を祝いたいと思います。
今回も、いろいろな人達の助けと友情に支えられての旅でした。いつか近い将来、この人達が来日したとき、接待するのが楽しみです。
ヨーロッパ・ステンド紀行 5 (4月14日)
実はフランソワ達二人は、昨日、カリブ海に浮かぶフランス領マルチニーク島から帰ったばかりで、時差ぼけ気味。私たちも連日の強行軍で少々疲れていましたが、ブリュッセルは素敵な町ですから、今日は精力的に廻ることにします。
まずは、有名なグランプラスへ。ここは、中世ギルドのゴシック建築に囲まれた広場で、ぐるり360度中世です。
グランプラス
この近くには小さな有名人、小便小僧のオリジナルが居ます(カメラを持つ観光客で囲まれていました)。
<動画>です。
次に、サン・ミッシェル大聖堂。ここのステンドグラスは、規模と豪華さで、私の知るステンドの中で群を抜いています。パリノートルダム寺院のバラ窓も豪華ですが、ここサン・ミッシェルは、絵画的で、眺めていて飽きません。
内部の様子を<動画像>でもご覧いただきたいです。
絵画のようなステンド
昼食は、ベルギー名物ムールフリットです。ムール貝のスープ蒸しとポテトフライ。よく、ポテトフライをフレンチポテトと言いますが、ここベルギーが発祥だと、フランソワが教えてくれました。
ムール貝はちょっとしょっぱかったですが、ガーリックと野菜の出しがとても美味しかったです。
初夏のような陽気の中、テラスで貝食い
ブリュッセル市内を効率よく観光する手段として、オープンカーの観光バスをフランソワの車でチェイスする方法を思いつき、1時間ほどで重要建造物の外観を確認しました。
今日も忙しいです。この後、高速(アウトバーン)に乗り、一路ドイツのAachen(アーヘン)へ。古きよき都アーヘンには夕方着き、私の重要な旅の目的「本場のドイツパンを食す」に取り掛かりました。
私は家では、毎朝手作りのライ麦パンを食べていますが、今回は本物の味を舌で覚えて帰り、さらに腕を上げようと思っています。早速片言のドイツ語で、ライ麦100%のドイツっ子ですら苦くてあまり食べないという無骨なフォルコンブロートを購入。店内のカフェテリアコーナーで4人喧しく批評しながら食しました。
酸っぱくてぼそぼそしています。決してたくさん食べたいとは思わない味ですが、噛めば噛むほど味が出てきて美味しかったです。
流石、きれいなパン屋が多いです
アーヘンの中心部にあるDOM(大聖堂)に、夕方6時だというのに入り込みました。
ここのステンドがまた、前衛的。ドイツの主要都市は第2次大戦で多くの打撃を受けたらしく、ここも後から入れたのであろう近代的な幾何学模様のステンドが入っていました。しかし、決して浮いたイメージは無く、ゴシック建築とマッチしていました。
前衛的なステンドたち
今日は、コレだけで終わりでは有りません。夜にさらにアウトバーンを東に移動。ドイツの大都市Koeln(ケルン)に向かいます。なぜならば、1泊2名で31ユーロ(5000円)の安宿、F1ホテルを日本で予約していたからです。「ホテル」と付く宿に泊まるのは、今回の旅行でここだけです。前回のけちけちフランス旅行でも、F1ばっかりでしたが。
ケルンの少し西のフレッシェンという街で、真夜中レストランを探してさまよい歩きました。土曜日の22時、それも田舎の町で開いている店を探すのは至難の業です。 フランソワがかつて勉強したと言うドイツ語を駆使して、通行人に聞いて、実に気持ちの良い店にたどり着きました。眠ったように静かな街でしたが、このBARだけはお祭りのような賑わい。皆、地ビールをしたたかに飲んでいるようでした。
好奇の目に曝されながら、我々「外国人」も席に着き、名物ザワークラウトとこのBAR産というビールを頂きました。本当に旨いものは、現地の空気を吸いながら...と言いたいですね。ドイツの田舎に住んでもいいかな、と思いました。
地ビールに、酸っぱく発酵したキャベツとソーセージは定番
(外国人だからって...もう少しいい席に座らせてくれ~)
ヨーロッパ・ステンド紀行 4 (4月13日)
この日は、朝から肌寒く曇り。ブルターニュ地方は雨が多いらしいです。
午前中、ナントの町の西、ジュールヴェルヌ博物館に行きました。私は、中学、高校と、この古きSF作家の大ファンでした。「海底2万里」「80日間世界一周」など、わくわくして読んだものです。しかし、彼がフランス人だったとは知りませんでした。というより、忘れていたのかもしれません。
博物館の資料自体は、文字が多くて、フランス語を読めない私には少し退屈でした。
ヴェルヌと
フランスに来て意外に思ったのは、桜が多いことです。染井吉野に似た種もありますし、八重桜も多いです。ここナントのトラム(路面電車)が走る目抜き通りも、八重桜並木になっていました。
日本と変わらない桜の美しさ
この日は大移動の日です。午後TGVで一旦パリに戻り、ここで大学時代からの友人フランソワに会い、彼の車で一路ベルギーの首都Brussels(ブリュッセル)へ。パリを出発したのが夜7時(と言ってもこの時期のパリは9時くらいまで明るいですが)。そこから4時間高速を飛ばして、11時ごろ迷路のような町ブッリュッセルに着きました。ここで、今晩の宿泊地ユースホステルを探すのが大難儀でした。比較的土地勘の良いフランソワと私も地図をくるくる廻しながら、小さな通りの名前を一つずつ確認して、たどり着きました。近くのケバブ(ヨーロッパで流行っているトルコ料理)屋で遅い夕食をとり、男女別の8人部屋で外国人のいびきを聴きながら寝ました。
ケバブ屋でフランソワとその恋人カリーヌ
ヨーロッパ・ステンド紀行 3 (4月12日)
レンヌの2日目。この日は小雨です。車輪がついているとはいえ、石畳をスーツケースを転がしていくのは重労働です。それでも貧乏人の僕らはメトロ(地下鉄)と徒歩で、サン・ピエール大聖堂へ行くのです(スーツケースに持参したゴミ袋をかぶせ、傘片手によたよた歩く姿は、情けないものです)。
石畳の坂道、しばし休憩
1844年完成したと言うネオクラシック様式の大聖堂は、円柱の柱が林立する重厚なつくりでした。
ゴシックではないので、天井はゆるいカーブを描いています
お昼過ぎ、国電で南下し、ロワール川河口の大都市Nantes(ナント)へ。ナントは、宗教戦争を終わらせた1598年のナント勅令で有名ですね。ここは、18世紀に奴隷貿易で巨万の富を得た街でもあります。
ここで行くべきところは、ナント勅令のブルターニュ大公城と、サン・ピエール大聖堂です。両方行きましたが、とにかくどちらも規模がでかいです。
ブルターニュ大公城の堀で休憩
ゴシックの大聖堂、サン・ピエール大聖堂は、戦災でステンドの多くが消失し、今は近代的な幾何学模様のステンドが多く入っていました。
前衛的な幾何学模様のステンド
この日の宿泊は、マダム・ミレイユ宅。本人が仕事で留守なのに、鍵を借りて勝手に荷物を置き、勝手に観光のベースキャンプとして使いたい放題でした。それと言うのも、妻が1年間ホームステイしていた旧知だからです。
素敵なマダムは、芸術と社交、お洒落とアンチエイジングに余念の無いパワフルな人。そのくせ、倹約家で、室内は照明が乏しく薄暗く、トイレは数回ごとにしか流してはいけません。もっともフランスは水が貴重なので、シャワーなど厳しく制限している家庭が多いようです。
常に恋愛していて、今も現役。夜遅くまで恋愛談に花が咲きました。
ヨーロッパ・ステンド紀行 2 (4月11日)
翌日、朝から国電でパリに戻り、メトロで急ぎモンパルナス駅に移動。ここからTGV(フランス版新幹線)でブルターニュの玄関口Rennes(レンヌ)へ行きました。
レンヌは、戦災で古い建物が多く焼け、比較的近代的な街
ここでは、日本にいるときサイトで知ったステンドグラス作家、ムッシュ・ヘルムボルドに会う予定でした。もちろん初対面ですし、日本にいるときは、電話やFAXはしましたが、タイミングが悪く本人とは一度も言葉を交わすことが出来ませんでした。最悪の場合、電車やタクシーを乗り継いでレンヌ郊外にあるアトリエに行くつもりでしたが、前日ようやく本人と連絡が取れ、なんと駅まで迎えに来ていただけることになりました。
ヘルムボルド氏。とにかく親切でした。見ず知らずの日本人を車で片道30分ほどもあるのに送り迎えしてくれて、合計3時間ほど付き合ってくれました。アトリエは広く、スタッフは20名。超多忙だそうです。驚いたことに静岡出身の日本人、鈴木さん(推定20歳後半)もステンド修復師として働いていました。彼はかれこれ10年ほどフランス国内のアトリエを渡り歩いているそうです。
どことなく少年ぽいしぐさが楽しいヘルムボルド氏と
ヘルムボルド氏に会いたかったのは、サイトで紹介されていた作品のバラエティーが豊富だったためです。実際、アトリエに行ってみて、古典的な作品あり、コパーテープ作品あり、フュージングありで、かなり勉強になりました。特にフュージングのための設備はすごいものがあり、畳1枚分くらいの広さがある電機窯(キルン)で、リビングダイニングの仕切り窓などの大型のプロジェクトを制作しているそうです。本人曰く、フュージングはあまり深入りしたくなく娘に全託したいそうですが、その割には技術の説明には熱があり、ご自身があみ出した数々のテクニックをそれこそタダで披露してくれました。
広いアトリエ。ここ以外に大小複数の作業部屋と小さなミュージアム有り
前衛的な彼のフュージング作品
この日の晩は、ブルターニュ名物そば粉のクレープを食し、珍しく個別シャワーがついたユースホステルに泊まりました。しかし、ベッドがきしむ音が大きくて、難渋しました。
ヨーロッパ・ステンド紀行 1 (4月10日)
4月9日から18日までフランス→ベルギー→ドイツとステンドを観る旅をしてきました。
とにかく貧乏旅行でしたので、飛行機はネットで手に入れた往復7万円の格安チケット。移動は電車と現地友人のマイカー。宿泊はユースホステルと友人宅でした。何より大変だったのが、何処に行くにも重い荷物と一緒だったことです。
でも、有名どころの大聖堂を確りと廻り、久しぶりに再会した友人達と味わう現地B級グルメは格別でした。
到着日の9日は、パリのユースに泊まり、次の日から強行軍が始まりました。朝からパリの南、電車で1時間ちょいのモンタルジーにあるアトリエマツダへ向かいました。
旅行前半は全て電車移動です。その雰囲気を<動画>でご覧下さい。
アトリエマツダは、私と妻がお世話になったステンド工房で、日本人の松田先生がアトリエを構えています。先生は現在も、ステンドを教えながら現地の教会の修復、個展などを精力的にやっていました。
少し模様替えされた工房で2時間ほど話し、先生お手製のざる蕎麦をご馳走になりました。
7年ぶりに訪れた松田先生のアトリエにて
アトリエを後にして乗り合いバスで移動し、まずはモンタルジー市内の教会へ。ここには地方の町のステンドにしては珍しく、日本を題材にした作品が入っていました。
次にモンタルジー近くのシャトールナーという小さな村へ。ここの丘の上にそびえる古城のような教会には、その外見とは不釣合いと思える前衛的なステンドがはめ込まれていました。
モノトーンの幾何学模様が美しいシャトールナーのステンド
シャトールナーは、森に囲まれたおとぎの国のようなところ
この日の宿泊は、モンタルジー郊外のムッシユ・クリスチョンのお宅。公務員を退職したムッシュとマダムは、パリからこの田園に引っ越してきて、ボランティアで外国人にフランス語を教えています。妻は、フランス留学中、お二人に大変お世話になりました。
ポニーと黒猫が家族の素敵なお宅
ムッシュのお宅で、フォアグラ、サーモン、シャンパン、貴腐ワイン、シャブリー、ボルドーなどご馳走になり、マダムお手製のリンゴパイで閉めるフルコースでした。
ジョークが絶えないムッシュ・クリスチョンとマダム・ロネ
お寺の霊廟ステンド:完成
ここ数日、夏日になったり、最高気温10度そこそこだったり、ジェットコースター陽気ですね。
ダル・ド・ヴェールのパネル3枚が完成しました。全部で37Kgです。型から外してみたら、エポキシが裏側でガラス面に染み出していたので、ハンドリューターを使って、1日かけて削り取りました。
とにかく重いので、ひっくり返すだけでも一苦労です。
ガラスの角が欠けないように透明のエポキシでコーティングして完成しました。後は、石屋さんに納品して、霊廟に組み込んでもらいます。
※この作品の説明は、ステンドグラス工房達風サイトの作品集ページで。