ステンドグラス制作者の「ぎやまん草子(その33)」「死」

私はステンドグラスを作るクリエイターであり、信仰者の顔も持っています(神社神道ですが)。信仰の目的は、死に対する不安や恐れを無くすこと。私が信仰している理由のひとつはこれです。

「その歳で、もう自分の死の話ですか。早くはないですか?」と問われるでしょう。人とはこの質問者のように、自分の死について考えることを避けるものですね。「死」という言葉は巷にあふれています。ニュースの多くが、他人の不幸な死を伝えます。そして、やがて自分に死が訪れることも覚悟しています。ですが、今、自分の死を具体的に思い描くことは最大のタブーです。

人の営みの多くが、この「己が死」から目を背けることから発している、と私は考えます。 酒を呑み享楽に耽るのはもとより、人はなぜ、際限なくお金を欲するのか。それは、「枯渇」の先にあるものは「餓死」であると本能が教えるからではないでしょうか。同様に人はなぜ健康を希求するのか。孤独を嫌うのか。その先に、病死、孤独死、つまり「己が死」が待っていると、無意識のうちに連想するからではないでしょうか。他人を蹴落してでも優位に立ちたいと駆り立てるもの、競争社会、いじめ、戦争、元をただせば人が潜在的に持つ「己が死への恐怖」から発していると思います。そして、その日が来るのを、できるだけ先延ばしにしたい。

私達は、己が死のどの部分を恐れているのか。死の前の苦しみか。介護を受ける身の心痛。お金の心配か。醜態を曝し、プライドが傷つくことか。愛する人達との離別、残された家族への心配、やり残したことへの未練、等々。そして、未知なる死後の世界に対する不安と恐怖心。これをたった独りで受け入れ乗り越えなければならないという事実。これら全てが恐怖だと思います。

私は小学生のころから、自分は短命ではないだろうか、と漠然と思い込む一種の癖がありました。西暦2001年を生きて迎えられるだろうか、と不安に感じていたことを覚えています。幸い36歳の時、ミレニアムと言われたこの一大イベントを、この目で見ることができましたが。また、小学校6年の時、沖縄の南部戦跡を訪れた時に受けたショックも大きく、戦争や罪のない人々に降りかかる不条理な死に対する、憎しみにも似た嫌悪感を持つようになりました。

しかし恐怖心を克服するには、目を背けず、対峙するしかありません。信仰は、ずっと避けてきた「己が死」をじっくり考えさせてくれる時間だと思います。祈りを通して、神との出会いを体感し、死後もこの関係は変わらないという実感を持つことこそが信仰で得る智慧ではないでしょうか。ああ、死んでも一人ぼっちではないんだ、という実感。諸行無常を悟り、貪ることを止め、心の平穏を得る。そうすれば、卒業式の前日まで伸び伸びと学び遊ぶ子供のように、生そのものも瑞々しく充実する。これは、信仰の専売特許、独壇場ではないでしょうか。これが得られれば、その時、億万長者よりずっと豊かだと思います。 私は信仰にこれを期待します。

フュージング画「みちしるべ」

フュージング画「みちしるべ」
死者の御霊を彼岸に導くみちしるべを、曼珠沙華の列で表現しました

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