小、中学生の頃、作文は大の苦手でした。読書も退屈。漢字も覚えられないし、書く字もまずい。国語が最も嫌いな教科でした。高校の頃から少しずつ読書をするようになり、今日、本が面白いと思えるようになりましたが、少年期に訓練がなされていないせいで、かなりの遅読です。
同様に子供の頃、作文は原稿用紙一枚書くのも大変な思いで、読書感想文ともなると悲惨なものでした。短編集の中で一番短い一話を読んで、ちょこっと粗筋を書き、最後に「おもしろかったです。」で終わりです。大学のレポートは、先輩の残した過去の作品の丸写し。
しかし、転機はやってくるものです。大学4年の卒業論文の時に、研究室の教授に文章の書き方を一から仕込まれました。名を藤堂教授といい、専門は自動制御で、当時機会学会誌の編集委員もやっておられました。ですので、文章に対するチェックは人一倍厳しかったです。学生の書く卒論とはいえ、概ね学会論文のルールに従います。学会論文は、文章作成のルールが厳格で、一文、一語といえども曖昧な表現は許されず、使用できる漢字なども品詞ごとに決まっていました。基本的には常用漢字以外は使えず、「すぐれた=勝れた、優れた」などのように複数の漢字を当てられる語はひらがな表記です。また、原則、副詞と接続詞はひらがな。「~と思われる」などのような主語が曖昧な受動表現は責任回避型文体としてはねられました。
教授はちょっとした提出物にもよく目を通し「うーん、この表現冗長。ここもここも冗長。簡潔かつ明確にお願いしますよ。」と、朱を入れてくれました。行間の美学など有り得ない論文の世界は、決して美文とは言えませんが、絶対に誤解を与えない、矛盾の無い、そして簡潔な文章を作る訓練を積んだことは、書くことへの自信に繋がりました。
またこれは功罪両面あるとは思いますが、論文は、当時普及し始めた「一太郎」というワープロで作成しました。漢字と手書き文字にコンプレックスの有った私でも、素早く美しい書類を作成することができました。ワープロは、書くことへのハードルをぐっと下げてくれました。
ちなみにワープロの「罪」と言えば、今日に至るまでずっとワープロに頼る人生ですので、手書き文章は全くと言って良いほど書けません。お中元のお礼状でさえ、一度ワープロで下書きします。ワープロでは、先に思いついた「転・結」から書き始めて、後から「起・承」を書くことも出来ますし、文章の書き換えや、入れ換え、他の文からのコピーも自由自在なので、打ち込みながら考えをまとめる事ができます。
藤堂教授は、こういっては失礼ですが、変わり者で面白みの無い人でした。ですが、どんな瑣末と思えることでも教えることに厳しさと情熱がありました。藤堂教授に出会っていなければ、この「ギヤマン草子」も書いていなかったかもしれません。とても感謝しています。
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